秋の夜長。
ご存知のとおり、
すこし肌寒いこの季節は身体はもちろん、
特にこの季節の深夜は少しでも気を抜けば意識はあれよあれよと窓
身体じゅうから醸す負の色、鏡に映った自分の顔に「澱」
無論、近しい友人に電話をかける、テレビを観る、音楽を聴く、
しかし自分の場合いったん入り込むと考えるということが止められ
先日も考える夜があった。
所謂、「ふさぎ込む」といった状態だ。
ズルズルと呑み込まれていく最中、「思考を変えなければ」と気がつく。
気づくやいなや、すぐさま脳内で行動を開始した。
思考を変えるといってももちろん宇宙の果てや倫理観、生命の起源といった高尚な事柄ではなく、逆に道徳などとはかけ離れていてなおかつ興味が向けられるものの方が良い。
それでいて「○○とすればどうか、いやその場合△△であるからして××」といった自分の中で質疑応答が行われるような、そんな議題がちょうど良い。
過去に出た議題としては、
①もし自分の母親と同じ名前の彼女ができたらなんと呼ぶか
②算数の問題ではなぜ弟は毎回兄と同じ時間に出発せず、何分か遅れて出発するのか
などがある。
ちなみにその時は、
①そもそもそんな人と付き合わない
②兄がせっかち過ぎる
という結論に至った。
今回持っていった議題は「ケイジ」という自分の名前の表記について。
まずはじめに「ケ」と「ジ」、これらはなんの害もなく堅実な者たちなので今回の議論からは除外
問題は名前の真ん中にある「イ」だ。
この一音が曲者、なのでそちらに焦点を置いた。
まずはじめに「ケイジ」と口に出してみてほしい。
お分かりいただけただろうか。
「ケイジ」と表記されているにも関わらず、おそらく大半の人が「
さらに「ー」
それならば発音の通りに表記すればいいのでは?
しかし並べてみてほしい。
「ケエジ」
「ケェジ」
いけない。
後者に至っては間違いなくギャル化が進んでしまっている。
これではどぎつい香水を撒き散らし、
ただでさえ女々しい性格、それをさらに助長してしまうような、
これらは一目で却下。
それならば「ー」はどうか。
「ケージ」
ふむ。
肩の荷が降りたような軽さ、
文字列も先ほどのギャルよりは随分見映えが良くなったといっても
しかしこの「ー」。
よく思い出してみてほしい。
彼は前にくる音によって発音をコロコロと変えてしまう浮気者。
言うなれば八方美人なペテン師。
それに気づくやいなや、先述の軽いという褒め言葉が「軽々しい」
だまされないっ。
彼の浮気相手はア、ウ、エ、オと本命の「イ」
おそろしい。
また、「ー」は単体では発音できない。
「フンン」
あたりが関の山であろう。
彼はいつでも誰かと肩寄せ合っている。
つまり、ひとりでは居られないのだ。
どこかに「ひとりじゃ生きていけない〜」みたいなうたがあった気がするが今はいい、その話はまた今度だ。
とにかく、
どうやら前述の二者の失敗を踏まえると、やはり「ケイジ」
人生は選択の連続だ。
しかし幸いにも両親が「イ」
間違いは、不正解か?
彼にとっての間違いは彼女にとっての正解かもしれない。
もしかすると世界にとって必要のないものがあなたの一番大事なも
誰かと話そう。
答えはなくともきっと心はある。
正しいものは変わりつづける。
昨日まで正しかったものは、今日は間違いかもしれない。
常識は時代とともに変わってゆくらしい。
受け容れる。
それは容易く、また難儀なもの。
しかしながら、いつかは受け容れるしかないのだ。
失敗も、別れも、そして死も。
しかしまだまだ「ケェジ」は受け容れられそうにない。
文字にすると吐き出せる。
悶々も悲しみも。
濁ったときには考えよう。
むずかしいことは要らない。
明日の楽しみやむかし感じたうれしいことでいい。
先のことばかり考えると、きっと”今”がおろそかになる。
今を粗末にするな。
先のことだけかわいがらずに”今”も”むかし”も愛してあげよう。
昨日も明日も、ぜんぶおんなじ時間だ。
きっと、こんなつまらないことにすべてのものが詰まっている。
秋はつづく。
悩む時間も、これまた良しです。